東京の河川(4)荒川の特性と歴史、周辺の地盤沈下

荒川の特性

東京の河川の中で「荒川」は最も重要な河川です。昔から水運の役割を担い、漁業や農業などの発展に寄与する一方、「荒ぶる川」として多くの水害をもたらしてきました。後述しますが、江戸時代や明治の利根川・荒川の流れを変える等の治水の努力、現在の荒川への備えは日本の国力を尽くした大きなものです。(利根川は江戸時代、東京湾に注ぎ荒川は当時の利根川の支流だったので利根川についても触れてゆきます。)一方、昭和初期から中期にかけて東京東部で生じた地盤沈下気候温暖化に伴う雨量の増大は現在の荒川の氾濫リスクを高める要因となっています。荒川の治水は東京において自然と人知との力比べといえるのではないでしょうか。

なお、下記の写真はいずれも荒川及び旧江戸川の河口にある「葛西臨海公園」付近で撮影したものです。葛西臨海公園は都内でも屈指の広さと陽光に恵まれた公園です。この公園は埋め立て地にあり荒川の長さも延長しています。また、アイキャッチ画像は葛西臨海公園の荒川の堤防から若洲にある「江東区若洲風力発電所」の風車を捉えたものです。東京の中小河川を中心に歩いてきた私にとって、荒川は雄大さという点で別格の河川です。

荒川河口付近

旧江戸川河口付近

葛西臨海公園

 

荒川は埼玉県、山梨県、長野県の県境付近にある甲武信ヶ岳を源流として、埼玉県・東京都を流れる河川で、河口は葛西臨海公園と若洲海浜公園に挟まれた部分となっています。流路延長173km、流域面積2,940k㎡、日本で15番目に長い河川になります。その特徴は①川幅が広いこと(特に中流域)と②流域内の人口密度が高いことが挙げられます。

川幅については埼玉県鴻巣市近辺で2,537mもあり利根川(流路延長322km、流域面積16,840㎢)の最大の川幅の2倍程度となります。荒川の上流は急流ですが、関東平野に入ると緩やかな流れになるため鴻巣市辺りの川幅が膨らむのでしょう。そして勢いよく流れてきた川が平坦な関東平野で水量を増すとともに河道が定まらず「荒ぶる川」となります。

荒川のこのような性質から荒川水系には多数の河川が含まれます。関東平野の北部・東部を流れる河川は荒川水系の河川が多く、「隅田川」「新河岸川」「入間川」「鴨川」「市野川」等があります。そしいて荒川水系隅田川支流として「神田川」「石神井川」が、荒川水系新河岸川支流として「白子川」があります。(江戸川・中川・綾瀬川等は利根川水系となります。)荒川は単独で捉えるより荒川水系として、更には利根川水系+荒川水系として捉える必要があります。

②荒川流域の人口は976万人で1㎢あたり3320人です。利根川流域の人口は1,279万人、1㎢あたり760人です。従って荒川流域の人口密度は利根川流域の人口密度の4倍を超えます。地図を見れば鴻巣市から桶川や上尾、川越、大宮の近辺を通過し東京の都心部に流れ込みます。人口密度の高いエリアを通過しています。

このように水流が多く河道の定まらない荒川が人口密度の高いエリアを通り抜けるのですから、荒川の治水は東京のみならず日本という国家にとても大変重要な課題となります。これまで利根川と荒川は大規模な変遷を行ってきました。江戸時代初期の①「利根川東遷事業」及び⓶「荒川の西遷」、明治から昭和にかけての③「荒川放水路」が特筆する事業といえるでしょう。

荒川の歴史

荒川と隅田川の分岐

旧岩淵水門

新しい岩淵水門

 

それでは利根川及び荒川の現在に至るまでの事業を見ましょう。

利根川東遷事業・・・利根川は江戸時代まで東京湾に注ぐ河川で、その当時、荒川は利根川の支流でした。当時、現在の利根川の茨城県猿島郡境町より下流は常陸川といわれていましたが、これに1629年、鬼怒川を合流させ、更に1654年、茨城県古川市中田から境町まで赤堀川という川を完成させ利根川の主流は千葉県銚子市に注がれるようになりました。この効果として、a.江戸を水害から守るb.利根川・鬼怒川を常陸川に合流することにより常陸川下流域の香取の海(霞ヶ浦から印旛沼に至る大きな湿地帯)の土砂の堆積を促進し穀倉地帯化を図るc.銚子から利根川を遡及し江戸川を下り江戸に達するという東北と江戸を繋ぐ水運を確立する、という多様な目的を達成しました。

荒川の西遷・・・荒川は江戸時代まで現在の「元荒川」(地図上の赤い河川)を流れていました。これを1629年、現在の荒川ー隅田川の河道とする荒川の西遷事業が行われました。このため荒川は熊谷市久下で元荒川の河道が締め切られ、従来の渡良瀬川等の河道を中心とした河道となりました。当時、熊谷市近辺では荒川の洪水や日照りによる干ばつの影響が大きく、この地域における洪水を防ぎ農業生産の安定することに目標が置かれていたようです。

荒川放水路・・・①②が江戸時代に行われた事業に対して、荒川放水路の建設は明治から昭和に行われた事業です。

現在の隅田川は、当時荒川の本流でした。そして明治の初期から荒川からの洪水は東京に大きな被害をもたらしましたが、当初の対応は財源の問題から防波堤の改修等に重点を置くものでした。しかし1910年(明治43年)8月、荒川本では熊谷堤や綾瀬川合流点より下流で大きな氾濫を起こしました。そして下流の隅田堤も決壊し本所地区が浸水しました。

一方、明治政府の誕生以来、荒川の周辺には恵まれた水資源を背景に工場の建設が増加し労働人口の増加も始まっていました。このような観点からも荒川の治水は重要なものでした。

そこで荒川を赤羽近くの北区岩淵町に水門を設置し、隅田川の位置にあった荒川の本流を現在の荒川(荒川放水路)に東遷する事業が1911年(明治44年)開始しました。荒川放水路の工事は延長22kmにも及ぶものでしたが、1930年(昭和5年)竣工に至りました。

個の荒川放水路の完成により、昭和22年のカスリーン台風や平成19年9月台風での被害が生じていたと思われます。荒川放水路については「国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所 調査課」がまとめた「荒川放水路変遷誌」が大変面白いです。是非一度ご覧ください。

「荒川」の河川名について・・・河川名について初めて法律上の規定がなされたのは1894年旧河川法の制定時です。この時「荒川」は源泉から北区岩淵間は現在の指定でしたが岩淵から河口までは現在の隅田川でした。しかし1930年に荒川放水路が完成して以降、「荒川」は現在の荒川と等しくなり(つまり岩淵より下流では「荒川放水路」が「荒川」を意味します。)、岩淵より下流の従来の荒川が現在の「隅田川」になりました。旧河川法が制定されるまでは法律上の河川名はなく地域ごとに河川の名称が異なることもあったようです。

東京都東部の地盤沈下


出典:国土交通省国土調査(土地分類調査・水調査)

荒川は上記のように江戸時代から大改修を行い氾濫が生じないように国家的に力を尽くしてきた河川です。しかし一方で温暖化により雨量が増加する傾向にあり、さらに荒川流域では次のような理由から地盤沈下が生じている場所も多くあります。もともと荒川下流は標高が低いのに加えて、地盤沈下が生じたため「江東区」「墨田区」「江戸川区」「葛飾区」の4区においては標高が満潮時の平均海水面よりも低い「海抜ゼロメートル地帯」が広く広がっています。このため荒川下流域は今でも洪水等の災害リスクの高い地域になっています。それでは地盤沈下はどのような理由で生じたのかを見てみましょう。

地盤沈下の理由① 地下水の汲み上げ・・・荒川流域は豊富に供給される水を活用して、今でも工業専用地域、工業地域、準工業地域が広がる地域です。これらの工業用水として地下水を活用した結果、昭和初期から地盤沈下が進行し年間10㎝以上の地盤沈下するケースもありました。これに対して1961年(昭和36年)以降「工業用水法」に基づき汲み上げを規制しました。

地盤沈下の理由② 南関東ガス田からのガスの採取・・・千葉県から東京都にかけて日本最大の天然ガス田が広がっています。埋蔵量は7,360億㎥、日本の天然ガスの約90%を占めています。かつて江東区や江戸川区では30か所にも及ぶガス井戸があり1957年(昭和32年)以降東京ガスに提供するため地下水と共にガスを汲み上げたため地盤沈下の原因となりました。1970年(昭和45年)ころ深刻な問題となり、天然ガスの採取は昭和47年(1972)12月末をもって全面的に停止となりました。天然ガスについては、一般社団法人東京都地質調査業協会の「技術ノート」をご参考にしてください。

現在では深刻な地盤沈下は生じていませんが、これらの経緯から荒川下流域の標高は極めて低いものとなっています。次回は荒川の氾濫から流域を守るための現在の対策等を見てゆきたいと思います。

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