東京の河川(6)多摩川と玉川上水

さて、今まで武蔵野台地から隅田川に至る「神田川」「石神井川」、南部の「目黒川」等、そして東京で最も重要な河川の「荒川」水系等を述べてきました。最後が東京の南側、神奈川県境にある「多摩川」について述べたいと思います。また江戸時代に多摩川から江戸市中へ水を誘った「玉川上水」にも触れたいと思います。

多摩川の特性

多摩川と浅川の合流

多摩川(多摩モノレールから)

浅川(高幡不動周辺)

 

多摩川は「奥多摩湖」が源流になり、小河内ダムから東京湾に至る138km、流域面積1,240㎢の河川です。その上に広がる河川は「一ノ瀬川」「丹波川」と呼ばれています。重要な支流としては「浅川」と「野川」があります。浅川は八王子市と相模原市の周辺にある陣馬山を源とし多摩川に日野市で合流する延長30.15kmの河川です。「野川」は国分寺市東恋ヶ窪を源泉として二子玉川で多摩川に合流する延長20.5kmの河川ですが、その直前に「仙川」と合流しています。多摩川は都―県境になっており調布市の「多摩川原橋」のやや下流より東京湾に注ぐまでの間が東京都と神奈川県の県境となっています。

荒川水系と異なり、多摩川は急流であり、溝口より下流域は扇状地上になっています。標高図で見ると、田園都市線上では「二子玉川ー溝口」間で低地ですが、下流の東横線上では「多摩川―元住吉」間、京浜東北線上では「大森―鶴見」間が低地となっています。河道はこの領域で変化してきたと考えられます。このため多摩川の北側(東京都)と南側(神奈川県)には類似した地名が多く古くには一帯の地域であったことが判ります。河道の変化と県境の制定によって昔の町村が分断されました。例としては次のようなものが挙げられます。

  • 世田谷区宇奈根 - 川崎市高津区宇奈根
  • 二子玉川(俗称) - 川崎市高津区二子(二子新地駅)
  • 世田谷区上野毛 - 川崎市高津区下野毛
  • 世田谷区等々力 - 川崎市中原区等々力
  • 大田区下丸子 ー 川崎市中原区新丸子町

また中流域でも東京都内同士となりますが、府中市押立町 - 稲城市押立が残されています。

多摩川には海抜ゼロメートル地帯はありません。JR鶴見線「浜川崎駅」付近で0.9m、京浜急行電鉄大使線「小島新田駅」付近でも0.6mが見つかりましたが、そのあたりが最も低い標高ではないでしょうか。(地理院地図(maps.gis.go.jp)を参考にしました。)

多摩川の治水・利水

荒川水系、利根川水系の治水については荒川第一調節池(彩湖等)や首都圏外郭放水路(地下神殿)のような巨大施設がありましたが、多摩川についてはこれほどの巨大施設は見当たりません。多摩川では堤防の整備等が中心となり、治水施設については奥多摩湖の「小河内(おごうち)ダム」「白丸調整池ダム」それに下流部の高規格堤防(スーパー堤防)が中心といえます。ダムは共に利水を目的としています。

小河内ダムは東京都奥多摩町、山梨県丹波山村、小菅村及び甲州市にまたがり面積約263km²のダムとなっています。小河内ダムの役割は主として水道用であり都内の20%をカバーしまた発電用(多摩川第一発電所)としても用いられています。後程述べる玉川上水を通じて都内の水道水を供給しています。

城丸調整池ダムは東京都交通局の発電用のダムとなっています。(多摩川第三発電所)

高規格堤防(スーパー堤防)は前回にも述べたように、堤防の高さに対して幅を広げることにより、「浸透」「侵食」「越水」について堤防を大幅に強化するものです。多摩川については国道1号線多摩川大橋より下流域で東京都大田区側と神奈川県川崎市側に高規格堤防整備区間が設けられています。多摩川では整備区間延長13.9kmのうち2.8km(18%)が整備されています。

多摩川では昭和49年(1974年)台風16号で狛江市で堤防が決壊し民家19戸が流出したことがありました。また令和1年(2019年)台風19号により世田谷区や川崎市での水害が発生しています。この台風では多摩川では計画降雨量(河川整備で用いられる流域の基準水量)457 mm/2日に対して473.0 mm(104%)と計画降雨量を超過していることから現在の治水対策が万全とは言い切れないと考えます。しかし多摩川の中流域より下流は既に完全に市街化しており荒川第一調節池のような大規模な貯水施設等を建築することも困難です。多摩川の治水は堤防の改修などを地道に行っていくのが原則となるでしょう。多摩川は荒川水系のように海抜ゼロメートル地帯はありませんし急流ですから、氾濫したとしても比較的早期に水は引き、地域全体が水没したままになってしまうリスクは低いかもしれません。しかし氾濫に対して決定的な対策を打つことは困難で、川崎市や大田区などで水害が発生する可能性は残ると思います。

玉川上水について

玉川上水羽鳥取水堰

玉川兄弟

玉川上水(スタート地点)

玉川上水駅周辺

三鷹駅周辺

開渠の終点(久我山)

 

玉川上水は1653年江戸幕府により羽村から新宿区四谷4丁目交差点付近、新宿御苑北西部付近の四谷大木戸「水番所」(現在の四谷区民ホールに記念碑)まで開渠として引かれた約43kmの上水道です。この水番所は現在の浄水場に近い役割を担っていたと思われ江戸市中へ排水を行い、超過した水量については渋谷川へ放水していました。江戸幕府は老中・松平信綱が中心となり玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門兄弟)が開削を行いました。

上記の地図は概ね国土交通省の「国土数値情報ダウンロードサービスかからシェープファイルというものをダウンロードしてGPSというアプリケーションで作成していますが、玉川上水は河川データに含まれておらず地図のWikipediaといわれるOpenStreetMapを用いて作成しました。玉川上水の管理者は今でも東京都水道局です。玉川上水の変遷については次の通りです。

明治31年(1989年)には西新宿の現在の超高層ビル群の敷地に「淀橋浄水場」が建設され玉川上水は淀橋浄水場に結ばれました。

昭和40年(1965年)に淀橋浄水場が廃止され役割を「東村山浄水場」に引き継がれると、玉川上水は羽鳥取水堰の第三水門から山口貯水池(狭山湖)及び村山貯水池(多摩湖)を通して東村山浄水場に結ばれました。現在も東村山浄水場が活躍しています。なお、昭和40年には利根川の水を荒川に引き東京の水道用として利用するため、埼玉県行田市の利根大堰で取水し鴻巣市で荒川に注ぐ「武蔵水道」が開削されています。このみずを荒川のやや下流にある秋ヶ瀬取水堰で取水し「朝霞浄水場」に送り東京都の水道利用をしています。(完成は昭和42年)当時、東京は都市化が進み水不足が深刻でしたが、この武蔵水道の完成が東京都のの水不足を解消し現在も東京の水道を支えています。なお東村山浄水場と朝霞浄水場は水道道路で結ばれ大量の増水に対応できる体制となっています。

一方、玉川上水は開渠として拝島駅、玉川上水駅、小金井公園の南側、三鷹駅、井の頭公園、牟礼を通過し久我山で開渠は終了します。その後暗渠となり高井戸駅付近で神田川へと放流され終了となります。

玉川上水は大変美しく周囲の住環境の住環境に彩を与えています。玉川上水は適度な水量で羽鳥取水堰の取水後から緑に囲まれ美しい景色が続きますが、特に住環境が優れているのは、JR三鷹駅周辺から井の頭公園にかけてではないでしょうか。JR三鷹駅の北口の桜通り沿い、南口から井の頭公園へと続く御殿山通りは規則的な街の区画や環境と良く調和した建物も多く古くから三鷹を東京都西部を代表する住宅街としています。またこの周辺は「三鷹の森ジブリ美術館」「太宰治文学サロン」「山本有三記念館」などの文化的な施設も多く三鷹周辺を一層魅力的なものにしています。

玉川上水は人工的な用水路ですから、原則、取水量以上の水量にはならず、河川の合流もありません。このため自然にできた河川と比較し安全性も高いと思います。「美しい水辺」に「安全」ということですから玉川上水の周辺地域は優れた住宅地域としての素質を持っています。今回で河川についてはひと段落としたいと思いますが、最後に玉川上水で締めくくることができて本当に良かったと思います。私は住宅地域が好きなんだ、とあらためて実感をすることができました。

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